親の介護と向き合おう!在宅で母を介護した8年間の記録
SPECIAL ARTICLE
はじめに
筆者が母の介護するようになったきっかけは、術後の母が自宅で独居生活をすることが困難だったからです。また、母自身は在宅を強く希望しており、筆者も何とかその希望を叶えてあげたいという思いもありました。
2011年3月、母は両膝変形性膝関節症末期で自力歩行ができなくなり、人工関節置換術を受けることに。退院した5月以降、外での歩行は介助が必要ですが、自宅内では自立歩行が可能なまでに回復しました。それから約8年強、2020年2月に亡くなるまでの壮絶を極めた母の介護。
本記事が、現在親の介護と向き合っている方はもちろん、これから介護と向き合う方の役に立てば幸いです。
自立歩行ができなくなり、車いす利用になった頃の母
母の介護にかかった費用
もう、10年以上前のことなので、現在の在宅介護にかかる費用とは異なりますが、参考までにおおよその金額を記します。
母は最初の入院前は介護老人保健施設(以下老健)に入所していました。その時で月25万円かかっています。
人工関節置換術の手術費用が1回15万円。
自宅に戻り、デイサービス週2回(月額37,000円)と訪問看護週2回(月額16,000円)を利用しました。途中で介護費用が値上がりし、10万円以下に調整したことを覚えています。その頃デイサービスの利用料金が月7万円位になりました。その他にもリハビリテーションパンツ(リハパン)・パット・グローブ(※いずれも老人介護用品)の購入だけで1ヶ月5万円位になりました。
手術前後の母の様子
手術前に母が通院していた病院の医師の話では「もう、歩くことはできません。」というばかり。
その当時の母は、歩行を除けば身体的に正常であり、認知症の症状もありませんでした。
筆者は「何か良い方法があるのでは?」と考え、徹底的に調べました。その結果、人工関節置換術という手術があることがわかったのです。当初、母が通院していた病院ではその手術を行っておらず、医師は何も教えてはくれませんでした。筆者が調べなければ、おそらく母は亡くなるまで歩けないままだったでしょう。
人工関節置換術を行っている病院に母を連れていき、診察してもらった結果、この手術を受ければ歩けるようになることがわかりました。そこですぐに決断し、母を歩けるようにするため、手術に挑むことにしたのです。
1回目の手術は東日本大震災の翌日だったので、よく覚えています。両膝ですから、2回の手術が必要です。病院の規定で1回目が終わり、すぐに2回目の手術とはいきませんでした。1回目が終わったら、一旦退院し、次の日に再入院するのです。このあたりが2度手間で非常に面倒でした。最初の手術が終わった段階では、まだ歩行はできないので、手術前にお世話になっていた老健に1泊宿泊をお願いした結果、これだけで2万円以上の出費でした。
手術中は同居予定者が立ち会わなければなりません。待合室で5~6時間、待たされた記憶があります。
色々手間はかかりましたが、2回目の手術も無事終わり、痛がっていた術後すぐに行うリハビリも完了。5月になると、いよいよ退院することになりました。
退院直後の母の様子
退院した頃の母は腰痛を訴える事が増え、レントゲン検査をしてみると脊椎が3つ潰れていることが判明しました。血圧も高く、上が180程度あったので、その薬を取りにいくのは、筆者の役割です。まだ働いていた筆者にとって、正直かなり面倒でした。また母は入浴が大好きで毎日入りたがりますが、日々忙しい筆者がその要望を受け入れる事は困難でした。
利用したサービスはデイサービス週2回と訪問ヘルパー週2回です。
退院した直後の5月、来客が帰り、母が玄関ドアの鍵を閉めようとしました。玄関には段差解消の補助用具として玄関台が置かれています。上がり框から玄関台に移ろうとしたところで母が足を滑らせ、転倒。左腕の骨折で完治まで6週間、ギプスで過ごすことになってしまいました。
母は戸締りに関して非常に神経質でした。筆者が門扉を締める時もサムターンをきっちりかける事を要求されたものです。
6月には浴室のリフォーム工事を行いました。筆者は真冬以外シャワー浴で済ませるのですが、母が戻ったら入るであろう浴室が使えるかどうかを確認したかったのです。すると案の定、湯船をはったお湯がゆっくりとぬけていく事がわかりました。母が入院中にリフォームを終えておきたかったのですが、業者の都合で6月に。以前は在来工法の浴室で広々としていましたが、リフォーム後はユニットバスになり、サイズは一回り、小さくなりました。入り口も以前は3面ある引き戸で広かったのが、今回は前後に開くドアになり、外側がスチールでできているので太腿があたらないか、注意が必要です。
集団行動がとれない母
この頃の母(要介護2)はまだ十分、元気でした。結婚以来、ずっと専業主婦だった母は集団で活動した経験がありません。集団行動がとれない母は、周囲の方々にかなり迷惑をかけたようです。まずデイサービス責任者とうまくいきません。デイサービスでいつも自分がすわっている席に他の利用者がすわっていたため、どかした事も。送迎バスで「私を早く降ろして」と言ってみたり、「私を早くお風呂に入れて」という事もあったようです。また、デイサービス職員にチップを渡した事が数回あり、わかった範囲で筆者が謝罪しました。
この頃、筆者の財布からお金が無くなっている事がたびたびありましたが、母が抜き取り、そのようなことに使っていたのです。
筆者は、何とか母のやる気を引き出そうと書道を薦めてみましたが、本人は拒否します(やる気があるなら、教室を捜して送り迎えをする気でいました)。また、筆者がいないと寂しがるので人型ロボットのペッパーくんを導入したのもこの頃です。初めは「ペッパー君、ペッパー君」と言って喜んでくれましたが、説明してもペッパーくんの操作方法を覚えないのです。ペッパーくんは視線を合わさないと人を認識しないので、他をむいてしまいます。すると母は「私が呼んでもそっぽを向く」と言い出しました。結局、筆者がいない代わりをペッパーくんに任せる事はできませんでした。それでもペッパーくんの中には高齢者用勉強プログラムが組み込まれています。それを使い2日に1回は勉強するようにしました。また、漢字・計算の本を購入し勉強もしましたが、本人が自らやる事はありません。そのあたりで、筆者はだいぶ苦労をしました。
現在(2023年12月時点)はロボットの機能がさらに進化し、生成AIも利用できるようです。IT大手MIXIの対話型ロボット「ロミイ」は、独自に集めた日本語の会話を学習させたAIで、自然な受け答えをするそうです。相談や質問に、より適切な回答ができるようになり、食材に合わせたレシピや旅先のおすすめ情報にも答えられるとのこと。利用料金は初期費用54,780円、月額利用料1,628円と手ごろで、自治体によっては購入費用の助成が受けられるので、事前に確認しておきましょう。
施設入所を考えた出来事
2014年10月、筆者が買い物から戻って、玄関のドアを開けると異様な臭気がします。リビングにいるはずの母の姿はなく、廊下は血だらけです。そしてトイレを覗いてみると、一面血だらけで便座にすわった母は、青い顔をして気絶状態でした。急いで救急車を呼び病院へ。
出血は数時間後に止まりました。筆者は当然、入院だろうと考えていましたが、医師によると「この程度では入院はできない」との事。仕方なく、タクシーを呼び、自宅へ戻ることに。
またいつこのような状態になるか分からず、先行きが不安で施設入所を考えたのはこの時です。母をベッドに寝かせた後、汚れた廊下・トイレの清掃を徹底的にしました。
後日別の病院に受診したところ、医師から「詳しい検査は数日間、絶食しなければいけないので、年齢から考えてもハードです。また、腹を切る事もできません。」と言われました。
ひたすら摘便の日々
筆者はまた、何か良い方法はないかと徹底的に調べました。そして肛門専門のクリニックがある事がわかり、受診してみる事に。その医師からは「腹を切らなくても、外からできる日帰り手術がある」と言われました。子宮脱もみつかりましたが、こちらは手術をするほど悪くはありませんでした。この時わかったことは、母には内臓を維持する筋力が既にないという事実です。
2015年1月、母は日帰り手術を受けました。その結果、肛門が狭くなり、自力での排便が困難に。そこで週2回の訪問看護で摘便のお願いをしました。この回数では少ないので、後1回は筆者の担当です。しかし、またもやここで問題が発生しました。
プロであるはずの看護師が、少量の摘便で済ませてしまうのです。丁度、ビール瓶を一振りして栓をぬいた感じです。泡だけ出て、中身のすべてが出る事はありません。母の便はまだ残っているのに、栓だけ抜かれた状態です。当然、しばらくしてまた便が出てきて、その処理をするのは筆者以外いません。これでは何のために訪問看護を頼んでいるのか?プロである看護師がなぜそんな簡単な事に気付かないのか?筆者にはとても不思議でした。
そこで別組織の訪問看護を頼みましたが、回数は少ないものの同じような事がまた起き、この時はもう諦めの境地に。
2015年6月には、床がぬけそうな場所が数ヶ所かあり、母が汚した廊下もきれいになるので1階リビング以外の床張替リフォーム工事を行いました。この工事期間中に2階で過ごす事を母に提案しましたが、なぜか「絶対にイヤ」と言って受け入れてもらえません。
2階でテレビを見る事ができるよう、ケーブルテレビの延長コードを用意しましたが、使うことなく無駄になってしまいました。
仕方なく筆者と母はリビングで一緒に過ごす事に。廊下を張り替えている時は、板が敷かれているだけの状態が続きました。その板を踏みながら、夜中にトイレ誘導したことを思い出します。何も起こらずに良かったのですが、これは非常に危険です。板の下は地面が見えていたので、1歩踏み間違えたら大変な事になっていました。
子供たちの不仲
筆者には実家を出て別々に暮らす年子の兄が一人います。筆者が実家に入る前に、兄にも一緒に住んだ方がいい旨、説得しましたが聞き入れてもらえませんでした。兄は母の介護には一切、ノータッチでした。母に触る事が恐いというのですから、それでは介護はできません。
母は自分の子供たちが不仲である事に気付き、悲しんだようですが、こればかりはどうにもなりません。
兄は家父長制度の権化のようなところがあり、長男である自分が偉いと思い込んでいます。幼少期より嘘をつくのが大好きで、最近ではそれがエスカレートし、病的と思うほどです。兄の話を聞いているだけで不愉快になるため、仲良くやっていくことは不可能です。兄とは母が亡くなった後、3年に及ぶ調停で筆者と争う事になります。現在は縁を切って会う事もありませんが、後悔はありません。
まとめ
筆者は、父を亡くして憔悴しきっている母をどうしても放っておけませんでした。何とか自分の人生を生きて欲しいと願い、そのためにできることは何でもやったつもりです。しかしその甲斐はなく、母が亡くなるまで筆者の願いが叶う事はありませんでした。
どんなに医療が発達しても、一度失われた人間の機能が元に戻る事はありません。手術の進歩・向上で多少は元には戻りますが、完全に治ることはないのです。だからこそそうならないよう、一人の人間として、精一杯努力する必要があります。母の場合はその努力が足りず、今でもそれが残念です。
体調の急変により母が亡くなったのは、長期療養病棟ですが、介護が必要になった後も自宅で過ごしたいという母の希望は叶えることができました。母の火葬後、残った遺灰と人工関節の金属2つです。それが今も記憶に残っています。
認知症発症後の母の様子
認知症専門病院を初受診
2014年7月、母は初めて認知症専門病院を受診しました。診断結果は、レビー小体型認知症。医師によると「母の歩き方に特徴がある」との事。この認知症は4大認知症の一つであり、アルツハイマー型に次いで2番目に多い認知症です。特徴は現実にないものが見える「幻視」、いき過ぎた思いである「妄想」があるところです。
母にもこの症状が時々見受けられ、「知らない人が土足で入ってきて室内を見て行った」「息子に自宅を売却されてしまう」と筆者に訴えることがありました。
薬は当初パッチ(はがして胸に貼るシール状の外用薬)が処方されましたが、肌がかぶれてしまうので、途中からアリセプトという内服薬に変更することに。
母はこの月に突然、発症した訳ではなく、筆者はかなり前から、その兆候に気付いていました。亡くなるまでの期間、時々被害妄想的発言はありましたが、認知症はそれほど進行せず、記憶力がないだけで穏やかに過ごせたのは、母にとっても筆者にとっても良かったのかもしれません。もちろん思い通りにいかないことも多々ありました。母は今まで筆者の事を名前で呼んでいましたが、この頃からなぜか、君づけで呼ぶようになります。「自分の息子を君づけで呼ぶのはやめろ」と何度もいいましたが、亡くなるまでそれは続くことに。
大きな悩みは、早朝、自宅内を徘徊、転倒してはどこかに痣を作る事です。しかも何度もそれを繰り返します。腕の皮膚が薄く、絶えずすりむき傷をつくっていた母の姿は痛々しかったです。筆者は深夜に母のパット交換をしていたので、ちょうど寝込みを襲われるような状況が続きました。
筆者の介護離職
2014年10月 認知症を発症した母を一人にしておけないので、筆者は離職を決めます。失業保険の給付を受けるためにハローワークに行くと担当者から「介護の為の離職ですか」と質問を受けました。きっと年齢から分かるのでしょう。その事実を伝えると「ケアマネジャーさんにこれを書いてもらってください」と、1枚の書類を渡されました。それが「特定理由離職者」の申請書です。そんな制度がある事自体、筆者は知りません。この申請書のお陰で失業保険をスムーズに受け取ることができ、幸運でした。
認知症発症後の母の様子
2014年12月 介護度の見直しがあり、今まで「要介護2」であった母に「1」の判定が下されます。母の身体機能がよくなった訳ではないため、この判定にはどうしても納得がいきません。
そこで筆者が区役所に相談したところ、「不服申し立て」には時間がかかるため「区分変更」の申請を薦められました。「区分変更」とは要介護の認定調査を再度行い、介護認定審査会で新たに判定をし直してもらう制度です。この制度は主に本人の心身状態の急な変化や、入院を機に身体機能が悪化してしまった場合に申請するものです。この申請を提出し、母は再度、認定調査を受ける事になりました。
2015年2月、改めて母は要介護2の判定を受けます。筆者は「3」でもおかしくはないと考えていましたが、介護度の判定は身体能力が問題で、認知症の発症はあまり関係ないようです。
これは認知症の特徴の1つなのですが、母は紙が大好きです。デイサービスに行った時にはティッシュ収集癖がでて毎回、胸にたくさんのティッシュペーパーを詰め込んで帰ってきます。
また家ではリビングにある冷蔵庫を開け、食べ物を探して食べてしまうように。食べた事を忘れてしまうのです。また、洗面所にある筆者の下着ケースを開けて取り出して、自分のケースに入れてしまうことも度々ありました。仕方なくリビング入口のドアと下着ケースに鍵を取り付けました。この事を母は「猿ぐつわをかけられた」と表現します。トイレでの失敗も増えてきたので、下着を布パンツからリハパンに切り替え、中にはパットを入れるようにしたのもこの頃です。
デイサービス・ショートステイ・帯状疱疹の話
母はデイサービスの利用施設を何度か変えています。理由は、身体機能の重度によって、対応できない施設があるからです。その際、重要な事は「送り場所」を予め決めておくことでした。筆者が勤務していたデイサービスの利用者で「家の中のソファーに腰掛けるまで」が条件だった方がおられたように、歩行不可能な利用者には、そこまでしっかり決めておくことが大切です。母の場合も最後に利用したデイサービス施設では門扉までが条件でした。そこからは筆者の担当で、門扉から母をお姫様だっこして、階段を15段位上がり玄関に到着します。そして母をリビングにあるソファーに腰掛けさせると、ようやく門扉に置きっぱなしになっている車椅子を取りに行くことができます。 ショートステイも何度か利用しましたが、母の場合1泊の利用料が1万2千円位だったと記憶しています。洗濯はしてもらえず、1泊だとまず入浴させてもらえません。しかし、これは仕方ないことでもあります。施設にも施設の都合があり、3泊・4泊する利用者の入浴を優先させるのです。母はショートステイから戻るなり「お風呂に入ってないから入れて」と言い出します。洗濯物は山ほどあり、筆者は泣きたい気持ちになりました。
帯状疱疹は80歳までに3人に1人が発症する皮膚病です。加齢や疲労・ストレスによる免疫機能の低下が主な原因。症状の多くは上半身に現れ、顔面・目の周りに発症する傾向があります。母の場合、右足の太腿部分に水ぶくれができ、次第に数が増していきました。完治までに1ヶ月以上を要し、その間受けているサービスは中断することに。
役所の介入と筆者の見解
2017年5月 根拠のない単なる推測で、虐待を疑った区役所の役人3人が訪問してきました。事前のアポイントはなく抜き打ちです。
高齢者虐待防止法によって、医師は虐待の兆候を疑った場合、患者の保護に努め、地域包括支援センターや警察に通報する義務があります。医師が患者をみれば、転倒してできた傷か、殴られてできた傷かの判断はつくでしょう。その確認もしないまま、いきなり訪ねてきたのです。筆者としてもいい気持ちはしないので、何も話すことなく帰って頂きました。
役人は採用時に難しいペーパー試験を通っているので、きっと試験勉強はよくできるのでしょう。しかし、「勉強ができる事」と「仕事ができる事」は別問題です。
彼らはきっと介護の本当の現場を知らずに、きれいなデスクワークとマニュアルを勉強している人達としか思えません。また一人でできることを複数で行動する時点で、人件費への考慮が皆無であり、民間企業ではありえない事です。
それだけではありません。後に母は誤嚥性肺炎で長期療養病棟に移る事になります。この時丁度、介護度の見直しがありました。役人が母の様子をみて、介護認定審査会で介護度を決定するのですが、それまで「要介護5」だった母が、見直しで「要介護4」と判断されました。これには筆者も呆れて、不服申し立てをするつもりでいましたが、その数か月先に母は亡くなってしまいます。長期療養病棟に入院しているのは、死が近いという事です。それなのになぜ、介護度が軽くなるのでしょうか?
「家で死ぬということ」という著書がある石川結貴氏(以下敬称略)も役所への怒りをあらわにしています。石川は別居で尊父(要支援2)の介護をしていましたが、更新時に介護保険を打ち切られてしまいます。理由は自立と判定されたため。
~なぜこんな結果なのか、これからどうすればいいのか、私は通知書を凝視したまま怒りと不安を抑えられなかった~と記しています。
転倒後、救急搬送
2018年4月 早朝、母は廊下で転倒。頭部を強く打ち、血だらけになり、救急搬送されることに。病院で様々な検査をした結果、大動脈弁狭窄症であることが判明しました。加齢により、心臓の弁が石灰化して開きにくくなり、血液の流れが妨げられてしまう疾患で、これを直す手術がTAVI(経カテーテル的大動脈弁置換術)です。入院した病院ではその手術を行っておらず、別の大きな大学病院の紹介を受けます。前の病院医師から「何もしないのも一つの選択肢ですよ。」というアドバイスを受け、手術をうけなかった場合、年内までという余命宣告もありました。
凄まじい手術 TAVI
2018年5月 母はTAVIを受ける事に。この手術は開胸しないため、体への負担を抑えることができます。まず太腿の血管からカテーテル(直径2㎜前後の細い管)を挿入、心臓までのばします。カテーテルの中には金属の網が入っており、それを心臓の弁に取り付けると石灰化した弁に血液の流れ、パカパカと開閉するのです。使用する人工弁の耐久性は5年までは問題なし、歴史の浅い治療の為、それ以上のデータはありません。また、この手術を受けると自動的に障害者になることから、母には障害者手帳が交付されました。
デイサービスで誤嚥、救急搬送
2019年1月 母はデイサービスで食べたおやつのサツマイモを喉に詰まらせ、顔面が真っ青に。搬送された病院で嚥下能力の検査を受け、数日で退院できました。この年、母は入退院を繰り返す事になります。
1月に再度、自宅にて誤嚥を起こして、緊急搬送。この時、医師より病状の説明があり、今回の食べ物で肺炎を起こしたわけではないとのこと。嚥下機能も特別、悪い訳ではない事がわかりましたが、胃瘻の提案を受けました。
筆者の認識では胃瘻患者の9割は寝たきりで、本人に意識はなく、基本的に延命治療と考えています。書類にはしていませんが、母もそれは望まないはずです。中には胃瘻でも意識があり、元気に歩いて活動している方がいる事を筆者は知っています。しかし、それは例外である事もまた事実。母を胃瘻にした場合、寝たきりで意識はなく、ただ呼吸をしているだけ、という状況が想定できます。そこでこの提案は丁重にお断りしました。
結腸潰瘍~誤嚥性肺炎で最後の入院
2019年8月 リビングに置いたソファーで過ごす母の隣で、筆者はPCをいじっていた時のことです。何か、異臭がすることに気付き、ソファーの下の床を見ると赤く染まっていて、母が気絶しています。急いで救急車を呼びました。診察の結果は結腸潰瘍。一時は大腸がんも疑われましたが、そうではなく、ほっとしました。
同年10月に誤嚥性肺炎で再度入院。危篤状態が続くため、病院側から筆者に宿泊の要請があり、1週間ほど泊まり込む事に。用意した病院側のベッドはとても硬く、背中が痛くなりました。しかも30分に1回位緊急ブザーがなるので、睡眠どころではなく、疲れ果てて、ギブアップ状態でした。
この時から母は亡くなるまで、自宅に戻る事はなかったのです。この病院は救急病棟なので最長1ヶ月までしか入院できません。
同年、11月、母は長期療養病棟に転院する事になりました。
転院先で一時外出を願い出ましたが、医師から「医学的非常識」と一蹴されました。筆者は母を美容院に連れて行き、髪をカットし、スタジオで遺影写真を撮りたかったのです。
現代では、高齢者向け美容サービスを提供する専門職、ケアビューティストが存在します。介護美容は、高齢者に自分らしく生きる力を与え、体の機能を回復させる効果も報告されています。ケアビューティストが病院に出張してくれるかはわかりませんが、母にこの訪問美容を受けさせたかった。そういう家族の想いに応えてくれるサービスができればと願っています。
2020年2月、亡くなるその時まで口元がかすかに動き、筆者の名前を君づけで呼んでいました。
母の介護を終えて、筆者の頭によぎったのは、「はたしてTAVI手術を受けて良かったか?」という事でした。なぜなら、母がこの手術を受ける事は誰にも相談せず、筆者が単独で決定したからです。前の病院医師からのアドバイス「何もしない事も一つの選択肢」を選んでもよかったのではないか?結局、母を苦しめただけではないのか?筆者自身の我儘ではなかったのか?様々の問いが頭をよぎりました。
TAVI手術は延命のための胃瘻と違い、本人に生きている自覚があります。人間、この世に生を受けた以上、1日でも長く生きるべきです。ですから筆者は正しい判断した、と結論付けました。
まとめ
これから親の介護をする方へのアドバイスを箇条書きで記します。
①セカンドオピニオン、サードオピニオンが必要であり、介護者が自分で捜すしか方法がないのが現状です。
一人の医師のいう事を鵜吞みにしていたのでは、一人の命を救う事はできません。
②汚い事もやる覚悟が必要であり、慣れてしまえば何とも思わなくなります。上記で紹介した「家で死ぬということ」の著者、石川も最初は「インセン」(陰部洗浄)にびっくりしたことを記しています。
③介護者は何をやっても後悔しがちですが、自分にできる範囲の事をやればそれでいいのです。
後は、かけられる費用との問題になります。筆者の場合、たまたま介護経験があったので、一応、全部できたというだけです。